「三陸産生わかめの復興に向けて(2)」
2012年2月14日
◆「CO・OP三陸産生わかめ」の製造工場かわむらの復興レポートです。今回は第二回、震災翌日から製造再開にたどり着くまで、わかめ原料を厳しく管理していたことが製造再開につながりました。
●震災翌日からの見回りで被災状況が明らかに
翌朝から、かわむらの社長、川村賢壽さんは同社の施設を回り始めた。早朝4時に起きて車を出すが、交通は遮断され思うように動けない。だが、数日間、地道に続けるうちに、被害の全貌がわかってきた。
かわむらの施設は、気仙沼市内にサンマを加工する第一工場などが5施設、県域を超えて岩手県陸前高田市に4施設など、全部で21の事務所、冷蔵・冷凍施設、工場がある。そのうち、かわむらは実に17の施設を、震災と津波で失っていた。
水産品加工が業務であるため、施設はそのほとんどが海沿いにあったためだ。本社とその周辺にある第一工場、第二加工場も海から近い場所にあったが、高台にあったためかろうじて津波の被害を免れた。だが、残ったのはこの3施設のみだった。
「幸いなことに従業員は全員無事でした。家族を亡くされた方、家を失った方はいます。しかし、働いていた方は全員、無事でした。それが唯一の希望でした。それで再び立ち上がることができたんです」(川村潤さん)
(川村潤さん 「三陸の信用とブランドを守りたい。今年ほどそう思ったことはありませんでした」)
●残った3施設からはじめようと決断
茫然自失の数日間が過ぎ、何とか落ち着いて考えられるようになってからも、川村社長の脳裏の片隅には事業を廃業することもあったようだ。
今、会社を畳んでも誰も何も非難はしないだろう。いや、それでは従業員はどうなる。この先、何年もの間、路頭に迷った従業員の姿を想像して自分は暮らせるだろうか。
幸い、従業員は全員無事だったではないか。やり直そう。21施設中、残ったのはたった3施設だけだが、そこから始めるのだ。
3月下旬から各工場の後片付けを始めた。自衛隊は幹線道路を片付け、行方不明者の捜索に入っていたが、民間の施設の後片付けまでにはとても手が及ばない。出て来ることのできる従業員に呼びかけて自分たちで動き始めるしかなかった。 「建物は使えなくなっても、そこにあった瓦礫をよけたり、残っていたパレットや運搬設備を整理したりと、とにかく3月下旬ぐらいから始めて、細かいものまで含めるとかなりの時間を使いましたね。5月の連休でも冷蔵施設の周りの片付けをやっていましたし、6月、7月になって暑くなってからも毎日、施設を洗い続けていました」(川村潤さん)
片付けたからといって、その先、どうなるかはわからなかった。岩手県では、津波の被災地で自力で新しく施設を建てることは何とか可能だったが、宮城県では建築規制がかけられたからだ。たとえ自分の土地であっても勝手に修理したり新設はできなかった。実際後述するように、かわむらでは、岩手県陸前高田市で被害に遭った冷蔵施設は、片付けた後の土台の上に新設の新工場を建てることができたが、宮城県の気仙沼市の施設は何もすることができず、同じ気仙沼市でも唐桑半島の砂子加工場は新設が可能だった。
●厳しい管理体制で救われたわかめ原料
従業員が無事だったことに加え、もうひとつ希望を持てた理由があった。原料が残ったことだ。 「被災した冷蔵施設は4つありました。岩手県に2つと気仙沼に2つです。特に岩手の陸前高田に昨年作ったばかりの冷蔵施設は、社長が過去100年の津波の記録を調べて、それに耐えられる高さに建てました。今回はそれを超えて津波が来たんです」(川村さん) 冷蔵・冷凍施設は、水産加工業を営む会社にとっては生命線だ。水揚げしたばかりの原料を購入すると、すぐに冷蔵・冷凍庫で保管する。かわむらで最も取り扱いの多いイクラも、また、売上の4分の1を占めるわかめも同様だ。わかめは収穫時に大量に買い入れ、ボイルなど前処理した後、冷蔵・冷凍施設に保管して、その後1年間、注文に応じて取り出しては加工、袋詰めして製品として出荷する。
「3月はちょうどわかめの水揚げが始まりかけた時期でした。岩手の第2冷蔵庫にあった在庫が少なくなり、たまたま無事だった本社の冷蔵庫に移していたんです。そのおかげで今もその原料を使って製品を作り続けています」(川村さん)。
かわむらでは、施設内の整理整頓はうるさいほど徹底させていたことも幸いした。冷蔵・冷凍施設内では、ボイルしたわかめを箱詰めにし、それをパレットにきっちりと積み上げ、その四隅に鉄柱を建てて支えていた。3月11日と、さらに大きな揺れが襲った4月8日の余震の際も、高く積み上げたパレットはびくともしなかった。