志津川湾の養殖中の鮭、カキの稚貝、施設も船も流されてしまいました
2011年6月29日
宮城県南三陸町の志津川湾はリアス式海岸で南三陸金華山国定公園のなかにあり、保呂羽山や翁倉山などを源流とする川から森の栄養分をたっぷり含んだ水が流れ込みます。そして適切な水温と成長を促す潮の流れの中で、全国的に有名なカキが育ちます。
この環境はカキだけでなく、鮭の成育にも適しているため、銀鮭の海水養殖もこの地方で発祥しました。11月末に山間部の淡水の池から志津川湾に鮭を移し、海のいけすで冬を過ごし、4月から7月にかけて出荷します。
宮城県漁協志津川支所では1997年からみやぎ生協に向けて「志津川湾産生かき」を、市場を通さず、産直としてより新鮮な状態で出荷してきました。海水による加工処理が施されたカキは、剥きたての風味が残っていると、組合員に人気でした。
●被災状況
宮城県漁協志津川支所の事務所は津波で倒壊し、出荷を控えていた銀鮭も、網やいけすなど施設ごと流されてしまいました。そして、カキについても、加工場やいかだ、そしてこれから育てる稚貝が流されてしまいました。
志津川湾の各漁場・養殖施設はそのほとんどすべてが壊滅的な被害を受け、支所にあった1000隻の船のうち震災後に残っていたのは56隻に過ぎません。港周辺の地盤も沈下しています。
●再開への取り組み
ほとんどの船が失われ、半分以上の生産者が「もう海は止める」と言いました。そこで志津川支所では残った船・修理した船を、船を失った人を中心に共同利用することにしました。
漁協とは言うものの、漁師は一国一城(一舟)の主。個人事業主の性格が強い傾向があります。共同での利用と一言で言っても、慣れていないため、船を貸す側の心配は尽きません。しかし漁業を続けるには、「船を失った人の目線」で取り組んでいくことを漁協として決め、船を貸す人に理解を求めました。
使えそうな船は修理し、足りない分は共同で購入し、300隻を5年ぐらいのリースで共同利用していく予定です。震災後、バラバラに避難していた生産者も、船が修理できることや「共同でやる」という知らせが伝わると、8割が「もう一度やる」と戻ってきました。「弱い人の目線で共同で取り組むというのは協同組合ならではですね。」と志津川支所の阿部さんは語りました。
●京都の生協・農協・メーカーが駆けつけました。
6月6日朝、志津川の港に京都生協のトラックがありました。「被災地のみやぎ生協に代わって産直先を支援しよう」と駆け付けた京都生協のボランティア隊が、京都生協の取引先である鳥取畜産農協・大山乳業にも声をかけてやって来たのです。
女性3名を含むボランティア隊は、カキの養殖のいかだの錘(おもり)にする土のうに砂利を詰める作業に取り組みました。地区で予定している錘の数は10,000個。やれるところまでやろう!と6月の強い日差しのなか、数え切れない土のうを積み上げていきました。
鳥取県畜産農協の橋本さんは、震災があってすぐに支援に行くことを決めました。農協としても年間に3回くらい継続して支援を続ける予定で、今回のボランティアを通して次の支援のあり方を考えるため、農協の管理職クラスを中心に参加しました。
志津川漁協の松岡さんは内陸部の温泉地に避難していて普段はガレキの撤去をしています。「今日はコープさん来るって聞いて、土のう作業の手伝いに来たんだ。生協だから組合員が来ると思ったら、農協の人がよく休み取ってきてくれたなあと驚いた。同じ生産者同士でいろいろ話もできていがった。」と話していました。「漁協では個人じゃなく協同でやろうという話が出ている。また海で働くよ。」 ボランティアの善意が、被災地のやる気につながったようです。
<京都生協のトラック><京都生協の谷岡さんの長靴には職場からの寄せ書きが><土のういくつ作った?いっぱーーいでーす>
●産地のメッセージ
県の漁協で一番の支所長と言われていた志津川支所の支所長の遠藤一男さんは津波で亡くなりました。「遠藤さんに笑われないように取り組まないと駄目だ。」 志津川支所の運営委員長も務める佐々木さんはカキ・ワカメ・銀ザケ・ホヤ・ホタテの5つの生産部会単位で、志津川の海の良さを最大限に活かした新たな漁場として復興を進めることを計画しています。
ボランティア隊が作った錘をつけたいかだには、カキの稚貝を松島から持ってきて育てる予定です。「来年の秋には何とか出荷したい。めちゃくちゃおいしいカキつくりますよ!」 佐々木さんを力を込めて言いました。
「生協さんとは14年以上のつきあい。これまで何度も災害に襲われ、そのたびに支援してもらっている。海の見える場所でまた再開したい。漁民はね、必ず這い上がりますよ!」
<左 佐々木さん 右 安部さん>