被災地からの学びをどう生かすか(1)に引き続き、岩手県陸前高田市の特別養護老人ホーム高寿園で管理栄養士をしている菅原由紀枝さんの、震災当時のお話をお届けします。
高寿園は2009年から、岩手県地産地消給食実施事業所として、「食の伝承」を大切に、地元の食材にこだわり、食材だけでも40社以上の地元業者と取引していました。普段の地元との密接なつながりから、3月11日以降、地元の業者や農家から「高寿園が大変なことになっている」「なんでもいいから高寿園に届ける」と、米、野菜、果物、食料の差し入れが続きました。 発災翌日の12日には、豆腐24丁入りが3,000箱、しいたけ30箱、海藻類30箱、冷凍コロッケ1,000個、さらに水産品が2トン車で、肉の冷凍品が4トン車でと、まとまった食材が届き始めました。
13日目を乗り切り、14日目には電気が復旧し、4トン給水車がやってきました。15日目には、ようやく一日三食の食事提供が可能になりました。菅原さんは、この期間、高寿園の食事だけでなく、近隣の施設にも食事や物資のおすそわけを続けました。
高寿園の避難者は少しずつ減少し、1カ月後には約200人となりましたが、8月中旬まで避難所として利用されました。避難者の方々が、仮設住宅へ移動する際も、別れを惜しむ様子が多くみられたといいます。高寿園は、職員と避難者の見事な連携で乗り切ってきたことが、ここからもうかがえます。
極限状態の中で、避難者の食と心を支え、乗り切ってきた高寿園の経験には、今後の防災対策に欠かせないアイデアやヒントがたくさんあります。
野菜や芋などは小川で洗い、水を節約。献立は、生ゴミを出さないエコ献立を考案し、ゴミ処理は地面に2m×2mの穴を掘って対応。上下水道が復旧する6月まで、トイレも、近隣に穴をあけて、いっぱいになったら埋めることで対応したといいます。
マンパワーが完全に不足する中、職員の気力で持ちこたえる日々だったと、菅原さんは振り返ります。避難生活においては、避難者からボランティアを募り、人手を確保することが重要だといいます。
1,000人を超える避難者や利用者に食事を提供するには、調理場の人数が圧倒的に不足していました。高寿園では、地元の高校生や避難者の調理ボランティアなどの手を借りることで、この危機を乗り切りました。避難者を30人の班に編成し、リーダーが厨房前に食事を取りに来るようにルールを決めました。
また、栄養サポートチームを組織し、毎日届く物資について、「どこから届いたものか」「人数比による按分」を記録しました。避難者、避難職員、入居者に分配できるものは、グループ分けして1日2回実施しました。保管するものは、所定場所に整理して保管しました。同時に、近隣のさまざまな方に、避難者のための調理器具の提供を呼び掛けました。
さらに、食事の容器にはラップをし、食事後はラップを捨てるだけで、洗浄しなくても済む工夫をしました。また、調理加工が難しいものは、食材を並べて、バイキング形式で提供することで、手間を省きました。
高寿園では、避難者を迎え入れるにあたって、「命をつなぐこと」「公平であること」「笑顔で見送る」、この3つを目標に掲げ、見事に成し遂げました。それが実現できたのも、災害時に対応できる調理場の備えがあったからこそ。防災対策には、実際に災害が起こったときどうなるのかを考える菅原さんのような想像力が、何よりも求められることがよくわかります。
最後に、菅原さんは、「陸前高田の場合は『復興』というよりも『新生』に近いかもしれない。今できることを続けていきたい。持ちこたえるためには、目標に届くスピードも必要。そのための知恵を皆さんからアドバイスいただきたい」と話しました。さらに、「できれば、陸前高田のことを忘れてほしくはありませんが、時は無常、状況も変化します。多くの方に支援いただいたことを、こちらは、忘れずにい続けたい」と交流会の参加者へ、感謝の気持ちを伝えました。