2012年12月9日、愛知県名古屋市にある“ワークライフプラザれあろ”で、「学びと交流with三陸気仙〜友人が語る陸前高田のいま〜」が開催され、コープあいちの組合員と職員、外部からのゲストなど、60人を超える人が集まりました。
東日本大震災後、コープあいちは、愛知県から900km離れた岩手県気仙地域に支援に行ったことが縁で、現地の団体や個人との多様なつながりが生まれました。また、組合員が現地を訪れ、さまざまな方々と交流するツアーを、2011年10月〜2012年11月までの間に10回にわたって行ってきました。
今回の交流会では、ゲストとして岩手県陸前高田市の特別養護老人ホーム高寿園で管理栄養士をしている菅原由紀枝さんが、震災当時の話をしてくれました。900人を超える避難者を受け入れ、陸前高田市で2番目に大きな避難所となった高寿園で、菅原さんは、すべての人の命をつなぐために食事を提供し続けました。その貴重な経験には、今後の防災対策への多くのアイデアやヒントが込められています。
高寿園は、1989年に、陸前高田市民の強い要望と、市民の寄付により生まれた特別養護老人ホームです。菅原さんは、建設委員の一人として、高寿園の建設段階から関わってきました。調理場にはオール電化システムが導入されることになりましたが、災害に備えて、電気やガスがストップしても使えるようにプロパンガスを一部導入することを、当時、菅原さんは強く主張しました。「そんなに心配しなくても」という声もありましたが、菅原さんの意見が採用されることとなりました。
2011年3月11日14時46分、大震災が発生。その後やってきた津波によって、陸前高田の街は壊滅的な被害を受けました。高台にある高寿園には、辛うじて逃げてきた人々が次々と訪れ、当日の夜には、避難者758人、職員130人、デイサービス利用者50人、入居者110人の合計1,048人となりました。
安全を確保し、清潔な環境を維持するために、利用者の居室を半分空けて、高齢の避難者やけが人などのスペースを確保。食堂やホール、園長室、廊下など、あらゆるスペースに避難者があふれることになりました。避難者の方々に心の余裕はなく、皆さん自分の居場所を確保することに必死でした。
これだけの人が集まり、一番の問題となるのは、どうやって食事をまかなっていくかということでした。菅原さんは、今後の方針を定めなければなりませんでした。非常食としては、150人の3食3日分を備蓄してありました。また、クックチルシステム(※)を採用していたため、入居者の食事4日分は整えて冷凍保存されていました。
これらを有効に活用して、「全員が安全に食べることができ、命をつなぐ食事」への変更が求められました。そのため、入居者、避難者ともに、糖尿食、アレルギー除去食(肉・卵・小麦粉)、高齢者向けのソフト食などが必要になりました。また、在宅の方やほかの避難所の方でも、特殊な経管栄養剤などが必要な方へは、食事を提供することにしました。
※加熱調理した食品を短時間に急速冷却して保存し、提供時に再加熱するシステム
震災直後から電気が止まっていたため、災害時用のプロパンガスに切り替えました。ガスの残量を計算しながらでしたが、「少しでも温かいものを提供したい」という気持ちがありました。また水道もストップしていたため、貯水タンクの水を、計算しながら少しずつ使う必要がありました。
震災当日の11日の17時には、避難者に、おむすび、漬物、お茶、あめ、菓子類、ペットボトルのジュースなどが配られ、入居者には通常の食事が提供されました。
調理場には、管理栄養士の菅原さんのほか5人がおり、翌日に備えて泊まり込みで準備をすることになりました。職員の中には連絡のつかない人がおり、菅原さん自身もご両親と連絡がつかず、後に、津波による被害で亡くなられたことが分かりました。そのような状況にありながらも、菅原さんは目の前にいる人々の命をどう救うかを冷静に考え、力を尽くしました。
翌12日には、避難者数は前日より100人増え、高寿園にいる人は合計で1,170人となりました。高寿園は、陸前高田市の中では、高田一中に次ぐ、2番目に大きな避難所となっていました。
菅原さんは、すべての人の命をつなぐために、一日二食制で食事を提供することに決めました。調理の人手が足りないため、避難者のボランティアの手も借りました。また、お米が不足してきたため、メニューにも工夫が必要になりました。朝は、青菜粥、梅干し、いちご、りんご、フライを提供。夜は、すいとん汁、煮物、りんご煮、卵焼きを提供しました。同時に1,200人の避難者がいる高田一中からの応援依頼に応え、150食を提供しました。
震災時の貴重なお話はまだ続きます。「被災地からの学びをどう生かすか(2)」は、こちら。